父の日に [さんぽ道 #5]


もうすぐ父の日ですが、ひとりの父から生まれたひとりの子どもとして、改めて「父と子」について聖書を通して考えてみました。

聖書の中で父と子というと真っ先に思い浮かべるのは誰でしょうか?

聖書を少しでも知っている人なら、やはり「アブラハム」と「イサク」の父子を挙げるのではないかと思います。

そしてアブラハムとイサクの話で有名なものといえば、ある日神様が、愛するひとり子イサクを燔祭として捧げるように言われた出来事でしょう。
アブラハムが実際にイサクを捧げるために彼に向かって刃物を振り上げた時、神様はその行ないを見て、アブラハムの信仰を認めてその手を止められた、という、衝撃的な出来事です。

この話は、のちに「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムの信仰を象徴する話としても有名であり、同時に、捧げ物とされようとしていた子どもイサクの従順さを象徴する話でもあります。

この話は、信仰のある人だとしても、にわかには信じがたいものです。
単純に考えて、ある日父が自分に向かって刃物を振り上げるようなことがあれば、「気が狂った」と言って必死で逃げる以外ないはずなのに、聖書にはイサクが何かを言った、抵抗した、という記述はなく、(アブラハムが)「その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた」としか書かれていません(創世記22章)。

思わず、そんなやつおらんやろ…、とツッコむ前に、このイサクの従順さの理由を考えてみました。
そのためには、やはりアブラハムとイサクの関係をよく知らなければなりません。

アブラハムは70歳を越えて自分の国を出て、親族にも親にも別れを告げ、神様が示す地に向かって出発して、第ニの人生を歩み始めました(創世記12章)。妻のサライが不妊の方だったので、アブラハムには子がいませんでした。
神様はそんなアブラハムにある時、「わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。」と約束なさいました(創世記13章)。自分でも思いもよらない神様の約束に、アブラハムは殆ど不可能だと思いながらも、自分なりにこのように神様が子孫繁栄の夢を叶えて下さるのではないかと、あれこれ模索をするものの、結局期待する子どもを得ることのないまま、気が付けばアブラハムも99歳、アブラハムもサライももう子どもを授かる夢を諦めかけていました(創世記17章)。がその時、神様は「来年サライが男の子を産むだろう」と言って改めて約束なさり、その言葉通り、翌年アブラハムが100歳の時に待望のひとり子イサクが誕生するようになるのです(創世記21章)。

十数年、子どもを授かるためにもがき、またもがいてやっと授かった子どもがどれほど愛おしかったでしょうか。
何度も何度も諦めかけて、人間的にも妊娠は不可能だという年齢で、自分たちではもう到底不可能だという夢を現実になったのだから、神様にもどれだけ感謝したでしょうか。
子どもを授かることでなくとも、何かしら「自分の願うこと」を十数年かけて苦労して成し遂げたことがある人はアブラハム夫妻の喜びの大きさを少し感じられるでしょう。

そうすると、人間的ではあるものの、かなり現実的に想像できることがあります。

アブラハムは、そのように、尋常ではない苦労の過程を経てやっと与えられた奇跡のような経緯を、当人のイサクに度々話し伝えただろう、ということです。

かく言う私も、相当な未熟児で生まれたので、今では人並みな体と健康を持っていますが、それがどれだけ珍しいことなのか、お前は死んでいてもおかしくなかった、ということをたくさん親から聞かせてもらいました。

ただの人である私の親がそうであれば、です。
ただの人ではない「信仰の父」アブラハムも、可愛いわが子をただ愛するのではなく、ただ苦労してやっと生まれたと聞かせたというだけなく、神様が両親をどれだけ助けて生かして下さったのか、神様が貴重な命を与えて下さって生まれたのが君だ、と息子イサクに語り聞かせたに違いないだろうということです。

そうすると、例の燔祭事件の時に、イサクが何も言わずただ祭壇に縛られた、という事実にもわずかに理解の可能性が生まれてきます。

イサクは、自分の父が度々話すことを聞いて、
自分の親が信仰する神様は、どうやら高齢の両親からでさえ自分という命を生み出させる存在のようだということ、父親がその神様をはっきりと信じて生きているということを理解し、自分がそのような存在に支えられて生まれ生きるようになったという自覚を持つようになったのではないでしょうか。
だから、イサクは、父アブラハムのことと父が行うことを心から信じていたし、父が信じる神様のことも心から信じていた、だからその信仰の上に「無言の従順」が可能だったのではないでしょうか。

実際、父アブラハムがそのようにイサクに教えたかどうかは分かりません。聖書にもそのような記述はありません。
しかし、一方で聖書にはこのように書いてあります。

子供らよ、父の教を聞き、
悟りを得るために耳を傾けよ。
わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。
わたしの教を捨ててはならない。
わたしもわが父には子であり、
わが母の目には、ひとりのいとし子であった。
父はわたしを教えて言った
「わたしの言葉を、心に留め、
わたしの戒めを守って、命を得よ。

箴言4章1~4節

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。(中略)
きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教えあなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

申命記6章4~7節

これらの聖句を見る限り、神様は、父という存在には子どもたちを「教えること」「教訓」を授けることを願っておられるようです。
であるならばやはり、アブラハムがイサクに神様について語り教えたというのは突拍子もない話でもなく、聖書的に現実的な話だと言ってもよさそうです。

前述した箴言4章にある「わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ」という言葉の通り、アブラハムは霊の父である神様から、イサクは肉の父であるアブラハムから、それぞれの「父」から教わったことを心に留めて、守ることで「命」を得るようになったのです。

私も過去を振り返り、”父から教わったこと”について考えました。

私の父は、昔から自尊心がはっきりとした人でした。
幼い時から色んなスポーツを一緒にして遊んでくれながら、どんなことでも他人も練習してできるようになったのだから自分も同じようにやればできるようになるはずだと、自分の可能性を信頼することを教えてくれ、また、他の人とは異なった考えを持っていてよい、違う考えを持った方がよい、ユニークであるのがよい、と自分の個性を貴重に思うことを教えてくれました。今までもこれらのことが多くの挑戦を可能にしてくれましたし、困難や苦境にも耐える力を与えてくれ、父とは離れて生きている今も、これらの教訓がもう一人の”父”となって続けて私を教えてくれています。本当に感謝します。

かくして、イサクのような信仰や従順さに至るにはまだだいぶ時間がかかりそうですが、父の日に感謝を告白しつつ、”子ども”の大先輩イサク先生に一歩ずつ近づいていきたいと思うようになりました。

あなたを生んだ父のいうことを聞き、
年老いた母を軽んじてはならない。
(中略)
あなたの父母を楽しませ、
あなたを産んだ母を喜ばせよ。

箴言23章22,25節

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