代表挨拶


牧師挨拶

皆さん、こんにちは!
数多くのページの中から、こちらをご覧になって下さりありがとうございます。

気が付くと私たちは多くのものに囲まれているようになりました。モノだけでなく、情報もたくさんあります。

恐らく今こちらをご覧になっている皆さんのお手元にはスマートフォンかパソコンがおありでしょうし、そこの中には全世界の様々な情報にアクセスできる環境があります。世界の美しい自然も、今夜の献立の参考になるレシピも、国内外の政治や芸能のニュースもすぐ見れます。私たちには選択肢があまりにも多いです。

このような今の時代は、宗教はもとより考え方や価値観もあまりにも多様です。私自身が生きてきた3,40年の間でも、かつては想像すらできなかったモノが生まれ、社会も生活様式もはっきりと変わってきました。この数十年がそうであるなら、この先の数十年、100年もやはりもっと変化に富んだものになるしかないでしょう。

ところが困ったことに、私たちの人生がおよそ100年で、1年は365日で、1日は24時間だということには変化がありません。 太陽は24時間ごとに東から上り西に沈んでいきますし、月も星も、私が生まれた時からその動き方も周期も変わっていないし、人間が肉体的に成熟するのにおよそ20余年余りが必要なこともずっと変わっていないように、動物や植物など生命の営みなど万物の法則は根本的には変わっていません。

私事で恐縮ですが、私は約40年前に、この京都の地で生まれて、2023年に牧師として京都の地に再び戻ってくるようになりました。

京都の地を踏んで以来一番強く感じることの一つは、やはり自然が美しく素晴らしいことです。木は大きく根を頑丈に張り、四季ごとに花や緑が鮮やかに映えて、水が豊かに滔々と流れる様子が、歴史的な街並みや風景と相まって、他の地では見ることができない魅力を発しているように思います。

そのように美しく雄大で神秘的な自然万物ですが、私が知る限り、これまで人間の中には自分がこれらを創ったという人はいなかったようです。そして聖書では、その天地万物と人間を創造なさった方を、まさに神様と呼びます。

そのように考えると、この世界には、あまりにもたくさん変化するものと、数千年以上も変わっていないものとが混在しており、それはつまり人間が造ったもの神様が創ったものとに分けられると言ってもいいかもしれません。

聖書には、そのように数千年以上も変わらないものを創られた神様の思想と哲学、考え、すなわち神様の愛が表されています。

なぜ自然を、人間をこのように創造なさったのか。暇つぶしに創ったというのでなければ、何のために創ったというのか。今このような世界を神様がご覧になっているなら何を考えていらっしゃるだろうか。

聖書を学んで行ってみると、だんだんと見えて来ることがあります。

教会の近くに「哲学の道」があります。哲学者である西田幾多郎さんが毎日その道を思想に耽りながら歩いたことからそう名付けられたそうで、300本以上の桜の木があり、季節ごとに花も緑も川の流れもとても美しい道です。もしまだの方がいらしたら、是非足を運んで下さればと思いますが、その足をもう少し延ばして、教会で聖書を通しても人生を哲学なさってみるのはいかがでしょうか。

実際に、聖書も人生の「道」について伝えています。

ヨハネによる福音書14章6節
イエスは彼に言われた、「わたしはであり、真理であり、である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

溺れそうなほどたくさんの情報やモノ、考えに囲まれている人たちにとって、教会や聖書が必ず「道」になるとは言い切れないかもしれません。しかし、その出会いによって、不変の真理をもって天地万物を創造された神様が、人生の混乱や戸惑い、不安があれば明確な方向や秩序を、確信や勇気を持つ人には更なる希望を与えてくれると私は信じています。

京都愛火教会牧師 新谷 仁春

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