ある日、いつものように教会前の道を歩いていると、目に入ってきたのは電柱脇の百合の花。
百合と言えば、聖書では愛する人の象徴。
2:1わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。
(雅歌)
2:2おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。
そんな貴重な存在がこんなにはっきり花咲くまで気づかなかった自分にちょっと落胆する自分と、え、なんでこんなところに咲くねんすごない?というシンプルな疑問を持ちながら、写真を撮ろうと近づきました。
すると、こんなにきれいに咲くまで全く気付かなかった理由が分かりました。
造花でした。
どなたかがこちらに挿されたのでしょう。
いや、それにしても、なぜここに…と思いつつも、粋な人がいるものだ、素敵なことだと嬉しく思いました。ただ、どこか嬉しい気分が半分、少しドッキリにかけられて騙されたような気分半分で、その日は苦笑いして過ごしていました。
教会のすぐ前の電柱なので、数日それを見るたびに騙されたことを思い出していましたが笑、だんだんとまた「それにしてもなぜここに」と思うようになりました。
すぐ脇には植木鉢もあって、違う花や木が植えてあるので、別にそちらに挿してもいいだろうに…なぜこの電柱脇に挿したのだろう??
そしてもう一度よく見ると、白百合の隣には一本の木が生えていました。最初も見ていたのですが、その時改めてそれに気づきました。
自分で調べてみた範囲では、これはナンテンという植物のようです。
そしてこのナンテン、よく見てみると、剪定されている跡がありました。誰かがこのナンテンを世話していらっしゃるのです。
なるほど…
つまり、このナンテンを独り寂しく咲かせないために、百合を植えられたのか??そういうことか?
と勝手に推測して納得しました笑。道ばたに百合を咲かせるのも粋なものですが、ナンテンの孤独を癒すためにという理由があるなら、更に粋な計らいだなとまた感嘆しました。
すると、また「そうだとして、なぜここにこのナンテンは生えたのだろう」という考えが首をもたげてきました。
百合を挿した人が最初にナンテンを植えたのか、自然に生えたナンテンを世話しているうちに情が移ってそのようになさったのか…。常識的な範囲で考えるなら、こんな電柱脇で何かを育てようという人は少ないだろうから、後者だろうかと思いましたが答えはわかっていません。
恐らく造花の百合の理由は挿した方を見つけて尋ねることができればわかるはずです。しかし、ナンテンの方は少し厄介です。
聖書を信じて神様を信じる立場からすると、このナンテンを植えたのは神様です。
神様、なぜここに植えましたか?
なぜタンポポではなくナンテンを植えましたか?
なぜここまで成長するようにさせましたか?
なぜ自然に成長するだけでなく、誰か人間の手をかけてまで成長するようにさせましたか?
聞きたいことは色々出てきますが笑、聞いてばかりではアレなので少し自分でも考えてみました。
ナンテンというのは「難が転じて福となる」という意味をもつ縁起物の木だそうです。そのような木を、神様がわざわざ、しかも教会のすぐ前に植えて下さったということは、「個人にも教会にも何かの苦難があったとしても必ず祝福となるから、心配するな」ということでしょうか。タンポポやそのほかの雑草でなくナンテンを生えさせた理由は合ってますか神様?
この木が本当にナンテンなのか、百合は一体どなたが植えられたのか、まだもう少し、色々な理由を知るために私が確認すべきことは残っているので、5月の残りはそれをやらなければならないようです。
さて、聖書を通して神様について知るようになって素晴らしいことの一つは、すべてのことには理由があると考えるようになることです。
そのようなことを誰もが素晴らしいとは言わないかもしれませんが、私は素晴らしいことだと思います。
それは、ただの偶然だと思えば瞬間で過ぎ去ってしまうようなことも、このように「なぜここに」を続けた結果、しばし想像と対話の世界を楽しく旅することができるようになるからです。
1:18主は言われる、
(イザヤ書)
さあ、われわれは互に論じよう。
たといあなたがたの罪は緋のようであっても、
雪のように白くなるのだ。
紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。