クリスマスにイエスの話をしよう [さんぽ道 #6]


もうすぐクリスマスを迎える2024年の年末。
何を信じるとしても、クリスマスという日の恩恵を誰でも何かしら受けるのがこの日ではないでしょうか。

クリスマスは、本来はサンタがプレゼントを運んで来てくれる日ではなく、イエス=キリストが誕生したことをお祝いする日です。
もうその人が亡くなられてから2000年も経つのに、今も全世界的にその日を記念して過ごすようなイエスという人はどんな人だったのでしょう。

イエスは特に30歳から、十字架にかけられて亡くなる33歳まで3年間、キリストとして活動したことが聖書に記録されていますが、その間には色んな人のところに足を運ばれました。

イエス様が特にどんな人のところに足を運ばれたのか、一つの傾向があるそうです。病気をたくさん癒されたというから病気の人でしょうか?善い行いに報いるために正しい行いをしている人のところに行かれたでしょうか?

答えは「ご自身に関心を持つ人」です。

ではそんな、イエスに関心を持っていたある男の話をひとつ見てみましょう。

さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。

(ルカによる福音書 19章1節~4節)

ザアカイという人は取税人でした。
当時、その地域はローマ帝国の支配下にあったので、ローマ政府に納める税金を民衆から取り立てる役割でした。同胞たちから税金を取り立てるという意味でも、また納める額は決まっていても、どれだけ取り立てるかは取税人が任意に決められたため、不正に多く取り立てて私腹を肥やす人もいたということでも、取税人たちは民衆から蔑まれていました。欲深く、不正を行なう罪人だと思われていました。

そのように蔑まれていた取税人であり、背も低かったザアカイは、イエスが近くに来られてもそばに行けず、木に登って少し遠くから眺めるしかなかったのです。

ただ彼は「イエスがどんな人か見たいと思っていた」そうです。

イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。

(ルカによる福音書 19章5節~7節)

イエスがザアカイの近くを通る時、どういうわけか、イエスはザアカイの家に泊まることにしているから下りて来なさいと声を掛けます。ザアカイもさぞかし驚いたでしょうが、喜んでイエスを迎え入れました。

一方で、イエスは、罪人だと思われている取税人の家に入って行ったことから、良くない関係があるのではないかと思われることにもなっています。

ザアカイの家では、共に食事をしながら色んな話もされたでしょう。
誰でも一度でも一緒に食事をすれば、その仲は深くなるしかありません。
続きです。

ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。

(ルカによる福音書 19章8節)

ザアカイは、イエスの前で誓いを立てました。
貧しい人たちに自分の財産を施し、不正に取り立てたものは四倍にして返すと、自分のこれまでの行いを悔い改めるようになりました。

そして、そのザアカイの誓いを受けて、イエスが話されます。

イエスは彼に言われた、「きょう、救いがこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

(ルカによる福音書 19章9節~10節)

イエスはこの一連のことを「救いが来た」と表現され、またご自身が来られたのは「失われたものを尋ね出して救う」ためだと言いました。

ザアカイ自身もイエスの前で誓いを立てるくらいですから、どこかで正しい生き方をしようと思っていたのでしょう。
ザアカイが本来すべき、或いは、元々したいと思っていた生き方を選択することが「失われたもの」だったのかもしれません。そしてそれが実際に成されることが「救い」と仰いました。

このように見てみると、イエスとの出会いはザアカイの善良な心が行いにまで至るようになる、一つの機会だったということができます。自分の願いを実現させる機会です。そして、それらは元を辿ってみると、ザアカイ自身の”イエスがどんな人か見たい”と思っていたという関心から始まっています。

イエスという人がどんな人だったのか。
答えは様々にあると思いますが、今日のザアカイの例から考えれば、「自分に関心を持つ人に、願いを叶える救いの機会を与える人」だと言えます。

クリスマスという日。
今はイエスの肉体はこの世にありませんが、イエスの話を聞いて関心を払う人には、ザアカイのように、善い行いをする「機会」が「キリスト」として巡ってくることを願っています。


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